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元気をみる。


2月15日(日)京都府鍼灸師会の通年プログラム、生涯研修会の最終回でした。

前日に昔のバイト先の同窓会があり、たのしく飲みすぎてボーっとしたあたまでスタート。。でしたが、とても勉強になりました。

おりしも、京都マラソンの日。お昼に東大路へ出るとランナーたちが小雨の中、懸命に走ってました。

最終回のテーマは、「東洋医学の食養生」「始原東洋医学について(仮題)」「鍼灸臨床における有害事象について」

講義の本題とは少し違うのですが、講師の先生のお話の中で、鍼灸師(のこれからの役割)として「修理工から産婆さんへ」という言葉があり、とても心に残りました。

 

ちょっと話は変わり、さかのぼります。

鍼灸師になりたてのころ、飯田茂実さんという演出家の方と話をしてた時に、「たくまくんの仕事は元気をみるんだよね、病気をみてるんじゃないよね」と言われたことを思い出したんです。

ぼくらの仕事は「苦痛」と向き合います。一番の当事者はご本人です。

「病気」「症状」と呼ばれる。

そして原因を突き止めようとします。

 

先週、患者さんに「なんか探偵みたいですねぇ」と言われました。時々あります。

なるほど似てるかな。

そうかなぁと思いながら、ちょっと違和感しっくりこないような。

探偵は「犯人」を捜します。

ぼくらは、脈をみて、舌をみて、話を聞いて、音をきき、匂いを嗅ぎ、全身をみて「悪いとこ」はどこか。

「原因」は何かを探す。

これらはもちろん重要やと思う。なおざりにできひん。

はっきりとわからんこともあります。

だから勉強して頭をひねり、感覚を研ぎ澄まします。

けれど、病気や症状は、ただの悪人じゃなくて、よくなろうとするはたらきの過程でもある。

原因不明、難病と呼ばれるもの、末期といわれるもの、であっても最期まで「生きよう」「よくなろう」という、いのちのはたらきがある。

犯人探しも必要やけど、そのことだけは忘れんようにしたいなと思うのです。

 

先日、「うーん、(施術で変化があるかどうか)難しいかもしれへんな。。」と、思ってしまうことがあった。

なにが難しいのか?

「難しい病気」「やさしい病気」というとき、それらは一般的にそう言われているから、また施術者の主観もあるかもしれない。

何が難しくてやさしいのか。

誰にとってなのか。からだにとってもそうなんかな。

難しいからよくならないのか。

やさしいからといって本人は楽なのか。

と、いろいろよぎりました。

 

ま、そんなんエラソーに言うても、自分の無力さに泣きたくなるほど歯がゆい思いをすることも多々あります。

なんでやろかと焦れることもあります。

病、痛みは決して無駄なものやない。

しかし、小指のさきほどであっても苦痛が緩和してほしい。

というのは、お互いの願いでしょう。

触れて、はたらきを待つ。

ここ最近、その様子は波乗りか釣り人のようなものかな?と思って臨んでいました。

お互いの呼吸がある。

その反応を待っているという意味で。

でも、そこには捉えてやろういうエゴがあったのかもしれない。

産婆さんかぁ。

お手伝いはできる。

けれども、生むのはその人。

レッツさんば。

 

元気をみる。

ええとこだけみたい、単に楽観的な希望論ではなく、内在して発動している元気をみる。

回復しようとするはたらきを信じて待ちたいなぁと。

からだに触れさせてもらうときにいつもしていることがあります。

その方が「ほんまやったらこういうふうなんちゃうかなぁ」っていう状態をいったん想像してみる。

誘導じゃなく。一度、描いてみる。

「ほんまやったら」というのは「もともと(本来)は」という意味です。

講演中の本意は違うかもしれんけど、とりとめなくそんなあれこれを思いました。

ご講演くださった先生方、またスタッフのみなさま、ありがとうございました。

 

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お昼休み、京大病院前にて。